可愛い人
俺は剣闘士犬だった。 その前は、軍人だった。
俺にとって生きることは戦いそのもので、沢山の敵を屠ってきた。
だが主人の前では、俺はただ組み伏され、可愛がられるだけの愛玩犬だ。 それがどんなに心地良いことか、この主人には分かるまい。 分かったらいいのにと思い、俺は主人の背中に手を回した。
滑らかで無駄のない筋肉。だが、実践向きではないことが、俺にはすぐに分かる。
ヴィラの外で主人が何をしているのか、出会って二年にもなるのに、俺は全く知らない。
こんなところに来ているくらいだから、金は有り余るほどあるのだろう。 危険な目に遭っていないか、それだけが心配だ。 危険な仕事は、何も軍人だけじゃない。
暗殺されたり、暴漢に襲われたりする立場のデスクワークだってある。
「エリック……可愛い子だ……」
俺に口付けながら、うっとりと主人がささやく。 俺を可愛いと言うあんたこそ可愛い。 こっそりとそう考えた。 ヴィラ・カプリはそれなりに広い。 だが、完全に閉じた世界だ。
こんな閉鎖された世界にいると、時々離れている主人の事が心配でたまらなくなる事がある。
だが、もし外に出ることが許されたとして、俺はこの人のために出来ることがあるのだろうか。 思考は、そこで止まった。 主人の律動が激しくなり、俺は何も分からなくなったのだ。 この瞬間さえあれば。 この主人さえいれば、俺は世界一幸せでいられる。
支配される喜びと、揺さぶられる快楽に身の内を引っ掻き回されて、俺は知らず、主人の背中に爪を立てていた。
ラニスタになってヴィラを出るチャンスを、俺は自ら放棄した。
その頃の俺はすでに完全に主人に心を開いていたが、それは放棄の理由じゃない。
最終戦の前夜、あと一勝したらと話した主人の顔……寂しさを押し殺したあの表情に、俺はすっかり心を奪われてしまったのだ。
ラニスタになったって、外に出たって、俺は主人に会い続けたいと思っていた。 でも、主人にその選択肢は存在しないのだ。 犬で無くなった俺は、主人に会う事が出来ない。
そのことを悟った俺は、その夜に解放のチャンスを放棄することを決めた。
どうしたって、一度来た主人は帰らなければならない。
主人にとってここは遊びに来る場所であって、暮らす場所ではない。
俺は引き止めたい気持ちを軍隊上がりの根性で押さえ付け、主人に笑みを送った。
俺はちっともそう思わないが、屈折した美的感覚を持つ主人が可愛いと言ってくれる笑顔を。
「また来るよ、エリック。次のお土産は何がいい?もう酒にも飽きただろう」 土産なんか、俺にとってはただのオプションだ。 俺はあんたが会いに来てくれるならなんだっていい。
土産に悩む時間があったら、手ぶらでいいからたくさん会いに来てほしい。 俺はすべての気持ちを一旦脇へ押しやり、主人にねだった。
「飽きたりするもんですか。あんなうまい酒。また持って来てくれたら嬉しいな」 「そうか。では次に来る時も持って来るよ」 俺がものをねだると、主人は嬉しそうにする。 俺はその顔が好きだった。 そこで俺は、ふと思い付いた。 もう一つ欲しいものがあった。 「ご主人様、もう一つお願いしてもいいですか?」 「もちろん。珍しいな。何だい?」 「貴方を写した写真がほしいんです」 以前主人は、俺の写真を撮って持ち帰った。 俺も同じようにしたかった。 「ええ?私の写真をか?」 主人は軽く目を見開き、それから少し照れたように笑った。
その笑顔を、俺はやっぱり可愛いと思うのだった。
〔 了 〕
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